ソノマの暮らしブログ

カリフォルニア州ソノマに住んで25年。第二の故郷と決めた美しいワインカントリーで、ワインを追いかけて暮らしています。

友人が自殺

長年の友人が最近自殺してしまいました。

名前はマイケル・フェオラ。年齢 60歳。 ジュエリーデザイナーで、プラザにジュエリーのお店を持っていました。彼との付き合いは10年以上でした。 あるワインイベントで彼が奥さんのメリー エレンさんと一緒に参加していたことから友達になりました。マイケルは 優しい笑顔と穏やかな様子のハンサムなイタリア人の男性でした。メリーエレンハウエルファーゴ―・バンクの保険部門の副社長を務めていました。イタリア生まれのマイケルとアメリカで生まれの生粋なイタリア人のカップルから、イタリアの良い習慣や悪い習慣、 典型的なイタリア人の大家族間の揉め事などについて学ばせてもらいました。私とカップルの 3人で、 時にはもう 1 カップルと シングルマザーのレスリーと6人で1ヶ月に1度、 各自が好む レストランへ行ったり それぞれの家で持ち回りでディナーをしたりとい長い付き合いをしてきました。 特に私とマイケルは気があって、彼が他の人に私を腹違いの姉と紹介していたくらいです。
全員がワインと食べ物が大好きということでつながった仲間でした。

leaves with rain large
5年くらい前にメリー エレンが若年性認知症になってしまいました 。医者からの診断では5年後には死亡すると言われていたようですが、 私はそれは誤診と信じてでいました。マイケルは心の中ではそれを理解してたのですが、私には誤診のように話をしていたので、それを信じていたのです。でも だんだんと 病状が進行して、歩くと転ぶし、 最後には お話もできなくなってしまいました 。マイケルはよく 面倒を見る 優しい夫でした。
メリーエレンの症状が進んでからは、以前のように6人で会うことはなくなってしまいました。でも私とマイケルの友情は変わりませんでした。料理上手のマイケルは私をディナーに呼んでくれて、一言も話をしない(できない)メリーエレンと一緒に食事をしたこともあります。
私にできることは彼の話を聞くことしかありません。 それで1週間に1度くらい ワインバーでハッピーアワー(午後4時ころから5時か6時ころまで)にワインを1グラス飲んで メアリーエレンの進行状況や介護の話など 話を聞いてあげてました 。「これぐらいしか できなくてごめんね」
「誰にも言えないことを エミコに話せるだけでも ありがたい。もうどうしたらいいのかわからなくなるんだ」と涙を流したこともありました。 彼が店で仕事をしている時とか、外出しているときには、ヘルパーさんが来ていました が、室内に彼女が座っている 椅子が見えるようにセキュリティのカメラを設置して、いつもチェックしていました。
「 エミコはこれから何するの?」 2人で短い時間 だけどワイン を 飲んで別れる時に聞かれました。
「ホールフードで今日の夕飯の食材を買って帰るわ。 マイクは?」
「 彼女の ダイパー を買って帰る 」と、 そんな会話も稀ではありませんでした。 でもさすがの マイケルも一人でメリーエレンの面倒を見ることができなくなって、遂に施設に入れることにしました。メリーエレンは1年後にそこで亡くなりました。
「担当の人から電話が入って、『亡くなる前の症状が出てきてるので、すぐ来るように』という電話が入ったんだ」と、ある 朝、マイケルから電話が入りました。急いで施設に駆けつけました。 メリーエレンは施設の個室で眠ってるようで、まだ息をしてました。 シカゴから飛んできたお姉さんとメリーエレンの親友のスーザンと 私とマイケルと、朝から夕方までずっと 彼女を見守りました。その日は持ちこたえたのですが、翌日の早朝に亡くなりました。享年55歳でした。

最愛の妻を亡くした後のマイケルは、まるで糸が切れたタコのようで、 私が知っているマイケルはどこ行ってしまったのだろうと思うほどでした。 一人でいることに耐えられないと言って、ネットの出会い系サイトを通して、デートをしていたんだけれども、どのデートも実りませんでした。 そしてマネージャーとして雇っていた 21歳の女性と親密な関係になってしまいました。 私は「本気ならそれでもいいんじゃないの 」と言ったのですが、60歳の彼と21歳の彼女 では、年齢の差を克服できなかったようです。 彼女はサンデイエゴで新しい彼と一緒に住むといって引っ越して行きました。
コロナ惨禍中はもちろん会うことがなかったのですが、コロナ惨禍が終焉してからも、以前のように会うことがなくなってしまいました。 私自身が外へ出ない 暮らしに慣れてしまったのです。 彼と一緒に夕食をすることも、 数ヶ月に1度くらいになってしまいました。

彼が亡くなる一週間前です。
「2024年は 外へ出る年にしようと決めたの。来週、一緒に食事しない?」 マイクのお店をに寄って夕食に誘いました。商談中でしたが、快く返事をしてくれました。
「オーケー、 来週のいつがいいの ?」
「いつでもいいよ」
「 じゃあ 木曜日か金曜日にしょう。後で電話するね」
「オーケー、 じゃあ、 電話待ってるわ」と言って別れました。
その時のマイケルは一瞬引いた感じで、少しくらい暗い目をしていたのですが、自殺を計画してる人のようには 見えませんでした。 でもそれは私が注意を払っていなかったことなのかもしれません。木曜日になっても電話が入りません。 金曜日に「今日のディナーはどうですか」とメッセージを入れたら、「ごめん!仕上げなきゃいけない仕事があって、今日はディナーは無理。月曜日にまた連絡するからと」返事が来ました。月曜日にも、火曜日にも連絡来なかったけれども、 まあ 忙しいんだろう、 この次にまた会えばいいと思って、そのままにしてしまいました。
水曜日になって娘と車に乗っていたら、娘の携帯電話にマイケルの店の新しいマネージャーからメッセージが入ってました。娘はマイケルの店の契約書作成をしたので、マネージャーは娘の携帯電話の番号を知っていたのです。メッセージをチェックした娘が「マイケルに何か大変なことが起こったみたい。もしかしたらマイケルは死んだのかも、メッセージの声が普通じゃないのよ」とすぐに電話をしました。
私は「何を言ってるのよ」という感じで、 娘 が電話をしている様子を見ていました。
「ママ、マイケルは死んでしまったよ。自殺したのよ」
「そんなことはありえないでしょう。マイケルが自殺するなんてありえない」あまりのショックで涙も出ません。私の電話番号はマイケルの携帯電話に入っていますが、 もう 警察が入ってるので、誰も彼の携帯電話を開けることができません。 マネージャーが娘の番号を持っていたので彼女が娘に電話を掛けたのです。
その時のショックは言葉では表現できません。 自らの命を絶ってしまったというのと、 車のなどの事故で突然亡くなってしまったというのでは、全く違う心の痛みを感じる ということがわかりました。
どうして自殺をしたのか、憶測はできても本当のことはだれにもわかりません。

金曜日にオーケーだけじゃなくて、なぜ何かメッセージを送らなかったのだろ。月曜日カ火曜日に「まだ忙しいの?」と彼を思いやるメッセージを送らなかったことを悔みました。
「どうしてディナーを断ったのだろう」と何度も自問する私に「マイケルはママにサヨナラを言いたくなかったのよ」と、娘が慰めてくれました。
今は彼の思いやりだったんだと思うようになりました。もし亡くなる一週間前にディナーをして、いつものようにさよならしてたら、自殺を計画していた彼のことを察知できなかった自分を責めたと思います。マイケルがいつもの彼を演じたこと、何も言ってくれなかったことなど、一生考え続けることになったでしょう。
亡くなる一週間前に突然思い立って、彼の店に顔を見に行ってよかったです。
「じゃあ、来週、会いましょう」と言う私に、商談中なのにわざわざ私のところまで来て、ハグをして頬にキスをしてくれました。彼なりのサヨナラだったのでしょう。私もサヨナラしたかったというかなわぬ思いがあります。彼の奥底に潜まれた暗闇を私は読み取ることができませんでした。おそらく彼を知っている人たちも同じだったと思います。
その後、 1週間は彼の店の前へ行くことができませんでした。 ついに勇気を出して店の前 に行ってみました。 ドアも 窓口もぴったり閉まっています。 ドアの前にどなたかがお花をお供えしてくださってました。

マイケルは、もう、この世にはいないのだという事実を認められるようになりました。それでも、このことをマークに話そうと、ふと思うことがあります。彼の優しい笑顔が心に浮かびます。 そして「マイケルはこの世にいないんだ」と頭の中で繰り返して確認します。 これはどなたでも、 例えば亡くなった私の両親についても同じですが、亡くなった哀しみ、 会いたいというつらい気持ちは同じかと思うんですが、衝動的ではなく、重要書類をきちんとテーブルに並べて、計画的に自分の意思でこの世を去ったという事実が心に突き刺さります。
仲の良い友達でも心の奥底に潜んでいる 暗闇を知ることはできないということを今更ながら認識しました。

white flower
来週、 彼を偲ぶ会 がプラザの公園で開かれます。誰にも優しくて親切で明るかったので、 たくさんの人が偲ぶ会に参加されることと思います。
マイケルはメリーエレンと再び一緒になって、苦しみも消えて幸せだろうという風に考えると心が安らぎます。

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待ち合わせは三越のライオンの前で

11月初旬に4年ぶりに札幌に帰りました。コロナのせいでずっと帰れませんでした。 札幌に滞在中、本州は夏のように暑くてニュースによると ラーメン祭りなのに かき氷がよく売れたと言ってました。 札幌の11月は初雪が降る時期です。さぞかし寒いだろうとセーターをスーツケースに詰めて覚悟して帰ったのですが、ラッキーにもそれほど寒くなくてありがたかったです。 私が帰った後に雪が降ったみたいです。

親友N子さん
札幌を離れて35年余り、帰ると必ず会ってくれる親友のN子さん。滞在中は私のスケジュールに合わせて、会えるだけ何度も時間を作って会ってくれたものです。小柄で優しい可憐な声で上品に話すN子さん。 とっても知的でそれはそれはいろんな話を飽きることなく話しました。辛いことも楽しいことも話し合ってお互いに支えあってきた親友です。

mitsukoshi Lion

札幌での待ち合わせは、いつも、三越のライオンの前でした。
その彼女が背骨を骨折して2カ月入院しました。 退院して2週間後の初めての外出で、 私に会いに来てくれたのです。
会う約束の電話では、
「あー、恵美子さん、お帰りなさい!」いつもの彼女の声でした。
「入院、大変だったね。もし外出できるのなら、土曜日に会いたいと思ってるんだけど、空いてる?」
「はい、土曜日は空いてます」
「何時がいい?」彼女のスケジュールに合わせようと思って言いました。
「何時でもいいけど、11時半はどう?」
「了解」
「私がN子さんの地下鉄駅の琴似まで行くから、地下鉄近辺でランチかお茶をするのはどう?」先日の電話でご主人から、退院後、まだ外出してないと聞いていたからです。
「大丈夫。三越のライオンの前まで行けるから」自信たっぷりでした。
「じゃあ、いつものように三越のライオンの前で、明日、会おうね」
「はい、土曜日の11時半に」三回ほど念を押すように繰り返しました。
もしかして土曜日が明日だということを認識してないかもしれないとふと思いました。

翌日、三越のライオンの前に、少し遅れて着きました。彼女はいません。彼女のご主人から電話が入りました。
「今朝、彼女のスケジュール表を見たら11時半に会うと書いてあったので、だれに会うの?と聞いたら、誰と会うんだったか覚えてないというので、もしかしたら恵美子さんじゃないのと言ったら、そうかもしれないっていうんだよね。それから大急ぎで出かける支度をして、今、家を出ました。タクシーで行くように勧めたんだけど、地下鉄で行くと言い張って地下鉄で行きました。うまく着くかどうか心配なので着いたら連絡ください」
N子さんは1時間半ほど遅れてやってきました。細い彼女がもっと細くなってました。
「ごめんね、遅れてしまって」といつもの笑顔です。
ふらりふらりと頼りなげに歩くので、私が手を添えて一緒に歩いたのですが、この歩き方でどのようにして地下鉄の階段を上ったり下りたり、そして人ごみの中を歩いてきたのか信じられません。
いつものように三越のカフェの窓際の席で交差点を行きかう人々を眺めながら二人でコーヒーを飲みました。ああ、札幌に帰ってきた!親友に会えたという嬉しさがこみ上げてきました。
「歩くのが大変だからランチはどこか近いところにしようよ」
「大丈夫よ、歩けるから」歩行が不自由なことを認識してないようです。
すぐ近くのレストランでランチを食べながら、いつものように いろいろ話をしました。話がずれることなく知的な会話をちゃんと続けてくれます。でもどこか 昔の彼女とは違います。私が話し掛けないと、じっと下を向いたままです。
「話してると普通なんだけど、その後、すぐに忘れてしまうんだよね」とご主人が電話で言ってたのを思い出しました。今日、二人で過ごしたひと時を彼女は 覚えていてくれるのかなと悲しくなりました 。
N子さんと私は20代から同じ職場で働いていました。部署が違うのであまり話をすることがありませんでした。当時のオフィスレディの典型的なパターンで、N子さんは間もなく職場の男性と結婚しました。
一方、私は典型的パターンからかなり外れていて、組合活動やら政治活動に明け暮れていました。国家公務員なので政治的なデモ(組合のデモはオーケー)などには参加すべきではないのに、大勢の仲間たちが繰り広げる大きなデモに参加したりしてました。上役にそれとなく注意されたこともあります。

そんなある日、会合の後、アパートに帰る途中でタクシーにはねられて頭に怪我をしてしまいました。脳波に異常が出るほどの怪我で、1カ月ほど入院。職場に復帰したものの、後遺症で頭痛に悩まされ、脳波に異常が出て倒れてしまうから、激しい運動はしないように、走るのもダメと言われてました。
朝の通勤にバスに乗っていたのですが、バスが遅れて勤務時間に遅刻しそうになりました。一緒に政治活動をしていた職場の仲間たちは私を置いて、さあっと走っていきました。私一人残されたのです。遅れる覚悟でゆっくり歩いていたら、N子さんが横に来て一緒に歩いてくれたのです。
「勤務時間に遅れるから先に行って」
「少しくらい遅れたって大したことないでしょう」とN子さん。
弱い人に寄り添ってくれる女性がいたのです。政治活動をしていた仲間と同じように、私のスピードについてこれない人には関心を持っていなかった自分に気が付きました。この時から友人としての付き合いが始まりました。

私が渡米してからも、彼女との交友は続きました。
一歳半の娘を連れて札幌へ帰った時に、N子さんの次女のノンちゃん(5歳)が一緒に遊んでくれました。その時にノンちゃんは英語が話せたら、もっと娘と楽しく遊べるから英語を勉強したいと思ったそうです。そしてノンちゃんはボストンの大学に留学しました。娘が高校生の時に休暇でボストンから帰ってきていたノンちゃんと娘は英語でおしゃべりしてました。
N子さんは50代の時に、勤務中に、突然、頭が真っ白になるという症状が頻繁に起きるようになって、早めに退職しました。医師の診断ではどこも悪いところがないということでした。でも、今、認知症になってしまったことと関係してるかもしれません。
ホテルへ帰って一人になった時に涙があふれてきました。もう生き生きとした優しい笑顔のN子さんと昔のように話をすることができなくなってしまったのです。彼女と私の素晴らしい親友関係の一節が終わりました。

翌日、美味しいものを食べて、沈んだ気持ちを癒そうと、大丸の8階にある日本料理店に行きました。父が亡くなった時に、レイと一緒にこのレストランで懐石料理を食べたお店でした。美しくて美味しい料理に、心が和らぎました。気持ちを切り替えて、ショッピングに向かいました。

MItsukosi kaiseki
ソノマへ帰って3週間が過ぎました。N子さんのご主人に、彼女のその後の様子を聞きたいと思って、日本時間の朝の9時半に電話しました。以前のN子さんは朝が弱いので起きていないと思ったのですが、彼女が電話に出ました。私だと告げると「恵美子さん、今、どこにいるの?」と元気な様子の声でした。
「11月初旬に札幌へ行ったときに、N 子さんと会ったんだけど覚えてる?」
「あ、、、覚えてない」
「三越のカフェでコーヒーを飲んで、その後、ランチをしたんだけど覚えてる?」
「あ、、、覚えてない」
「陶器の展示会があったので、一緒に見たんだけど」
「それは覚えてる。でも流れがわからないのよね。もう年だから仕方がないと思ってるの」
「いつか私のことを覚えてないときがくるのかしらね」
「それはお互い様でしょう」
「そうだね。二人で『あんた誰?』って言い合うときが来るのだろうね」二人で笑いました。
人生っていうのはいろんなことを体験するものなんだということを痛感しました。

N子さんと私の親友関係は次の一節へと移りました。彼女が私のことを覚えていて、私の声を聞くと嬉しそうにお話ができる間は、電話、そして札幌へ帰った時に会い続けようと思います。
N子さん、今まで素晴らしい親友でいてくれてありがとう!

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アメリカでは人工妊娠中絶がなぜ政治問題になるの?

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過去 50 年にわたって、人工妊娠中絶がアメリカ政治の中心舞台に頻繁に取り上げられてきました。2023 年も同様です。7月12日 に共和党が多数を占めるアイオワ州議会は特別議会で、妊娠約6週間後、ほとんどの女性が妊娠に気づく前に、胎児の心臓活動が検出され次第、中絶を禁止する法案を可決しました。この法律を破ると医師も本人も逮捕されます。

多少の違いはあっても人工妊娠中絶禁止法を可決した州は、ざっとあげても、アラバマ州、アーカンソー州、アイダホ州、ケンタッキー州、ルイジアナ州、ミシシッピー州、ミズリー州、オクラホマ州、南ダコタ州、テネシー州、テキサス州があげられます。これからもさらに人工妊娠中絶禁止法を可決する州が出てくることでしょう。

そして人工妊娠中絶支持派は裁判に訴えます。なぜアメリカでは母体保護が医療機関ではなくて共和党支持派が多い州議会と裁判で決定されるのでしょうか?

最も近い姉妹国であるイギリスやカナダを含む他のほとんどの裕福な国では、中絶は医療問題としてとらえていて、政治の片隅にあっても、中心になることはありません。日本も同じだと思います。

カトリック系の学校での教育を受けた友人は、「宗教が一番の理由」と言います。 でもカナダはカトリック教徒や福音派プロテスタントも多いし、カナダとイギリスにも人工妊娠中絶反対運動が存在します。宗教や世論を超えて、国家機関が重要な役割を果たしていて、人工妊娠中絶は政治ではなくて医療機関が采配を取るという共通の認識があります。

カトリックの説教は「人間は受精した瞬間から人間である、つまり受精卵も人間である」というものです。しかも「生まれていない人間は罪のない人間なのだから 中絶を行なうことは殺人であり、十戒の中の一つ、人間を『殺してはならない』という教えを犯すことになる」とされています。

アメリカではPro Life(プロライフ)、 Pro Choice(プロチョイス)と大きく二つに分けて議論する人が多いです。

人工妊娠中絶擁護派は「プロ・チョイス(選択できることが大事)」、人工妊娠中絶反対派は「プロ・ライフ(胎児の命こそが大事)」と呼ばれ、激しく対立しています。(「プロ」とは、賛成の意味)

Pro Choice(プロチョイス)を自認する人々は、誰もが子供をいつ産むか、産むかどうかを決定する基本的人権を持っていると信じています。 選択に賛成だと言うとき、自分自身は人工妊娠中絶を選ばなかったとしても、予期せぬ妊娠の選択肢として人工妊娠中絶を選択しても問題ないと思っています。

Pro Life(プロライフ)を主張する人たちは、人口妊娠中絶に反対です。プロライフって、人の命(人間)を大切にするっていうことだと思うのですが、実際は、受精卵、胚、または胎児の命を大切にと主張しているだけで、望まない妊娠で生まれた子供の福祉や、出産した女性の人生には、とても冷たいです。 「プロライフ」を自称する多くの人々は死刑を支持し、児童福祉法に反対しています。

アメリカで人工妊娠中絶がこれほどまでに政治的に爆発的になったのは、連邦最高裁判所、強力な民間医療専門家、弱い政党、そして論争が存続して問題が何度も提起される分散型政治(地方分権?)システムが大きな理由とされています。

1973年に連邦最高裁が人工妊娠中絶を「憲法で認められた女性の権利」だとする判断を示したことから、人工妊娠中絶は医療問題ではなくて、憲法問題、政治問題となったのでした。

連邦最高裁が人工妊娠中絶を合憲とした根拠は、プライバシー権を憲法上の権利として認めた合衆国憲法の修正第14条です。

憲法では、人工妊娠中絶について明文化されていないものの、連邦最高裁は女性が中絶するかどうかを決めるのは、個人的な問題を自分の意思で決定するというプライバシー権に含まれると判断しました。

これが判例となり、以後およそ50年にわたって、中絶は憲法で認められた女性の権利だとされてきました。

それが、なぜ20022年から共和党が主権を握る州が、次から次へとそれは厳しい人工妊娠中絶法を可決しするようになったのでしょうか。

アメリカの連邦最高裁の判断は、終身任命された9人の判事の多数決で決まります。連邦最高裁が政治にかかわる案件を判断して、国の政策に大きな影響を与えるという、なんか信じられない機関です。中立派なんていうことはなくなっています。連邦最高裁の保守派とリベラル派の判事の構成比で判決が出されるのです。現在の顔ぶれは、保守派6人、リベラル派3人となっていて、人口妊娠中絶に関しては、保守派が反対、リベラル派が擁護の立場で判決が出されました。

2022年6月24日に、保守派が多数となった連邦最高裁判所が「人工妊娠中絶は憲法で認められた女性の権利だ」とする49年前の判断を覆したのです。「憲法は人工妊娠中絶をする権利を与えていない。49年前の判断は覆される。人工妊娠中絶を規制する権限は市民の手に取り戻されることになる」という判決をしまた。

これは、人工妊娠中絶を規制するかどうかは、憲法上の問題ではなく、それぞれの州の判断に委ねられるということを意味しています。

その判決に従って、現在、共和党が主権を握る州で次々に人工妊娠中絶反対の政策を可決しているというのが現在の状況です。

共和党が主導権を握る州の中年の白人議員(ほとんどが男性)たちが、「どんな状況でも人工妊娠中絶をするのは禁止」という規則を可決していくのです。

英国とカナダでは、準国家レベルの政府はアメリカほど重要ではなく、人工妊娠中絶に関する議論は主に国会に限定されています。一方、アメリカでは、連邦裁判所が人工妊娠中絶法の広範な条件を設定しますが、詳細を決めるのは連邦議会か州議会です。

日本の行政システムは、長い間、霞ヶ関を中心に国が政策を決めて、地方自治体がそれに従い仕事を行う「中央集権型」の体制でした。

英国とカナダでは、党指導者が候補者を選んで選挙運動に資金を提供し、選挙綱領を作成し、ほとんどの法案を発議し、一般議員に投票方法を指示します。 対照的に、アメリカでは州レベルの政党がさまざまな問題を強調(人工妊娠中絶もその一つ)して、個々の候補者や国会議員は、資金提供や団体からの圧力に応じて賛否を決めています。

アメリカの世論は、性的暴行や近親相かん、胎児異常の場合、あるいは女性の健康を守るために人工妊娠中絶をする権利を支持しています。家族の規模、貧困、婚姻状況が問題となる場合には、あまり支持的ではありません。

世論を無視してまでも人工妊娠中絶禁止法を成立させるのはどうしてなのでしょうか。民主主義の国は国民の意思、世論が反映されるべきなのに、世論から離れた人工妊娠中絶法が成立しています。

私見ですが、権力を握りたいキリスト教団体が政治家に圧力をかけます。選挙で勝ちたい議員たちは投票数と資金獲得を目標に、恥もなく非情な法律を受け入れているのが大きな理由じゃないかと思います。

「生まれていない人間は罪のない人間なのだから 中絶を行なうことは殺人であり、十戒の中の一つ、人間を『殺してはならない』という教えを犯すことになる」という教えを誠実に守ろうとしている人たちもいるでしょう。人工妊娠中絶反対の若者たちのインタビューをテレビで見て思ったのですが、この概念はとても分かりやすいです。でももう一歩考えを進めて、人工妊娠中絶をあきらめて、苦しい生活の中で子供を育てていく人たち(特に十代の若い人たち)、性的暴力や近親そうかんが原因で生まれた子供を育てていく母親の気持ちなどを考えてくれたらいいのになあと思います。あくまでも人工妊娠中絶に反対なら、生まれた子供たちに救済の手を差し出す団体などを作ってくれたらいいのにと思います。

人工妊娠中絶禁止の州では様々な悲しい事件が起きています。母体保護のため人工妊娠中絶が必要だと医師が判断したケースも少なくないでしょう。先日、妊娠を維持したら母体危険だから人工妊娠中絶を許可してほしいと裁判に訴えて、人工妊娠中絶が認められたのに、検事はその判決に反対して控訴したというニュースが報道されていました。

金銭的な余裕がある人たちは人工妊娠中絶が合法な州へ行って手術を受けることができますが、貧困層の人たちはできません。貧富の差が人工妊娠中絶問題にも反映しています。

母体保護に基づくはずの人工妊娠中絶が、アメリカではなぜ政治問題になるのか、その理由を知りたいと思って調べました。日本では人工妊娠中絶は母体保護としてとらえられているので、大きな問題になったことはないと思うので、あまり関心がないかもしれませんね。

「アメリカはどうしてこんなに極端な政策を打ち出す国になってしまったのだろうか。アメリカよどこへ行く」と一人でつぶやいてます。

※プレスデモクラットの写真を使わせていただきました

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